女性としてのハンディーは事のほか大きかった。
1999年 意外なところで、女性としてのハンディーが付いて来るものだと思った。
長男の「妻」「嫁」「母」「ばーば」「個人」、
そして「物づくり人」
「それら全てを、しっかり受け止め、可能な限りを尽くす。」
と、思っていた・・・
しかし現実には、「自分の出来ること等、たかが知れている。」という事を
思い知らされるのに、そう時間はかからなかった。
建物が出来始めた。
有難いと、心底 思った。
そして、完成した。
私は本来計算が苦手!
1998年、私は初めて真剣に計算した。
残りの人生設計を含め、「置かれた場所で咲く」為に。
それには、大変な試練が立ちはだかる事も知っていた。
一か八かの勝負であってはならない。
自分自身で一切を背負う覚悟がいるだけでなく、万が一の事もある
その時の自分の働き方も考えた。
身体が震えた。
そして私は、大きな決断を下した。
私は「ものづくり人」として、多くの課題を克服する為にその場所を作ると。
再びカゴ作りを始めようと決意したものの・・・
私は、今後どこでカゴ編をするのだろうか。
考えるうちに改めて津和野の「つづら工房」から持ち帰ったツルを見た。
すると、ツルに虫やカビが生えていたのだ。
これは大変な事に成ったと思った。
この課題を克服しない限り、次のステップは踏めない。
いったいどうする!
具体的に案を練った。
いくつかの工程を加える以外ない。
それには、ある程度の設備が必要だ。
当然膨大な費用がかかる。
其の上、設備が整ったからと言って、課題の克服に繋がるという保証はない。
全身が硬直した。
お金はない。借り入れに頼る以外ない。
そこには、女性であり、嫁であるが故の厳しい現実があった。
そんな中、私は既に線を引き始めていた。
最低限の設備を整えるためには、どの程度のスペースが必要で、どのくらいの費用が掛かるのか知りたかった。
繰り返し、繰り返し書いた。大工さんの指示に従って書いた。
「うん、出来るかもしれん。」
そして、正式な図面が引かれ、見積もりが出た。
やはり作りたい! 作り続けたい! と強く思った。
「ワイルドアート展」終了後、友の存在の大きさに改めて深く感謝した。
そして、動かなかった私の手が又動き出した。
大丈夫! 出来る! と自分に言い聞かせた。 そして・・・
1998年 再び津和野の「ぎゃらりー・与兵衛」で作品展をさせて頂いた。
ここでもまた、友人が全面的に協力してくれた。
ありがとう! 友よ!
あなた方のお蔭で再び立ち上がれました。
私は津和野を引き上げました。
1994年 様々な事が重なり、私はその重圧に耐えきれませんでした。
もう二度と立ち上がれないと思ったものです。
1995年 一年間は、何も考えられませんでした。
思い出しては只、涙していました。
1996年 その涙も枯れ果てた時、「つづら工房」での残骸に目を向け、改めて
このままでいいのだろうかと考えるように成りました。
私は、自分が生涯歩み続けると決めていた「つづらみち」をここで断つのか
と、自問自答を繰り返すように成り、思い切って友人に全てを打ち明ける
決心をしました。
友人は益田と出雲の人で、わざわざ柿木村まで来てくれました。
随分、話しました。
やがて友人は、
「ふーーん、ちづるさんは、それで止めるの?」「止められるの?」
「いえ、きっと止められないわ!」
「こんなところでグズグズしてないで、何かしましょう!」
「そう! 作品展がいいわ!」
「岩国の鍛造の彼と私の絵とちづるさんのつづらで、作品展をしましょう。」
「場所はここ! 柿木村で!」
友人の熱い思いが全身に伝わり、本当に有難かった。
辛かったことも、理不尽なそれも、全てかなぐり捨てて友人に支えられ
再び作ろうと決心した。そして、この時頂いた御恩は絶海に忘れないと思った。
今でも、感謝しています。
かきのきむらの「ふれあい会館」で「ワイルドアート展」
柿木村の小学校の生徒さん、保育園児さん、遠方の方から地域の方まで等、沢山の方にご来場頂きました事、まるで昨日のように思い出します。有難うございました。